第18話「転倒」
青山は一番町ブルワリーのプロジェクトが進む中で、常に頭の片隅に引っかかっている疑問を抱えていた。
「ブルワリーを本格的に立ち上げたら、IPA本舗はどうする?」
その夜、閉店後の静まり返った店内で青山は考え込んでいた。店は青山自身の象徴であり、多くの常連客とクラフトビールの絆を育ててきた大切な場所だ。簡単に手放せるものではない。
そんな時、店のドアが開き、裕子が顔を出した。
「まだいたんですか、青山さん?」
「裕子さんか。ちょうどいいタイミングです。ちょっと相談に乗ってもらえますか?」
カウンター越しに向き合い、青山が切り出した。「実は、ブルワリーの話が本格的に動き出しそうなんです。けど、その分、IPA本舗には十分手が回らなくなるかもしれなくて…。」
裕子は少し驚いた表情を浮かべ、「それで、どうするつもりなんですか?」と尋ねた。
「まだ決めかねてます。この店を閉めるつもりはない。でも、俺がこの店だけに集中するのは難しいかもしれない。」
裕子は少し考え込んだ後、ためらいがちに言葉を紡いだ。「それなら…私がやるっていうのはどうでしょう?」
青山は驚いたように顔を上げた。
「私がIPA本舗をやるなんて、どうかなって。いや、こんなおばさんじゃ無理ですかね。」裕子は照れ隠しに笑いながら付け加えた。
青山はその言葉に少し考え込むような表情を見せた。そして数秒後、静かに口を開く。
「いや、アリじゃないですか。」
「えっ、本気で言ってます?」裕子は目を丸くして青山を見つめた。
「裕子さん、常連たちのこともよく分かってるし、ビールが好きで、ちゃんと楽しんでくれる。何より、この店の雰囲気に馴染んでるじゃないですか。そんな人に任せるのが一番だと思いますよ。」
「でも、私、ビールのことは青山さんほど詳しくないし…」
青山は笑って答える。「知識なんて、これから覚えればいい。大事なのは、この店を愛して、ここに来る人たちとビールを楽しむ気持ちがあるかどうか。それは裕子さんなら十分だと思う。」
その会話の翌日、青山は常連客たちにこの話を相談してみた。
佐々木が真っ先に反応した。「裕子さんがIPA本舗をやる?それ、いいじゃないか!なんなら俺も手伝おうか?」
沖も笑いながら頷く。「確かに。裕子さんなら女性客も増えそうだし、店の雰囲気がもっと柔らかくなりそうだな。」
隼人が「裕子さんのIPA本舗か…。なんだかワクワクしますね。」と言うと、涼子も賛同する。「女性がやるIPA本舗って、新しい感じがして素敵ですよね。」
南田は冗談交じりに「じゃあ、次は『裕子のおすすめIPAセット』とか出してみたらどうですか?」と笑いを誘った。
裕子は周囲の言葉に少し照れながらも、「みんながそう言ってくれるなら、ちょっとやってみようかな…」と、小さな決意を見せた。
青山はその日の夜、店の帳簿を閉じながら小さく呟いた。「これでIPA本舗も安心だな。」
彼の中で、ブルワリーとIPA本舗の両方を守り、発展させていく未来が少しずつ形になり始めていた。裕子が新たな店長として動き出し、青山はブルワリーとの掛け持ちをしながら両方の成長を見届けることになる。
常連たちも、青山と裕子、それぞれが築く新たなストーリーに期待を寄せていた。
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その日の夜、青山はいつものように店を閉め、自転車で帰路についた。空はどんよりと曇り、小雨が降り始めていた。少し肌寒さを感じながら、青山はペダルを漕ぎ続けた。
「明日は早めに仕込みをしないと。」そんなことを考えながら、自宅へ向かう道を急いでいたその時——
路面に雨水が広がる中、青山の自転車のタイヤがマンホールの上で滑った。
「うっ!」
気付いた時には遅く、自転車ごと右側に倒れ込む。右肩、肘、腰、膝が激しく地面に打ち付けられ、青山はその場で動けなくなった。痛みと驚きでしばらくその場に座り込んでいたが、通りかかった人が救急車を呼んでくれた。
数分後、救急車が到着し、青山は右半身を痛めたまま運ばれていった。
青山の連絡を受けた裕子は翌朝、常連の佐々木や隼人たちに事態を共有した。
「青山さん、救急車で運ばれたって…!」
「えっ、どういうことですか?」隼人が驚き、佐々木も眉をひそめた。「それで、今どうしてるんだ?」
「病院に入院してるみたい。打撲だけで済んだから大事には至ってないけど、しばらく安静が必要だって。」
涼子が心配そうに言った。「でも、IPA本舗はどうするの?今日も営業の予定だったでしょ。」
裕子は一瞬考え込み、決意を固めた表情で口を開いた。「私がやるしかないわ。」
裕子の言葉に、常連たちがすぐに反応した。
佐々木が言う。「よし、俺も手伝うよ。何ができるか分からないけど、とりあえず店に行って準備する。」
「僕もお手伝いします。ビールを注ぐくらいならできますから。」と隼人。
沖も負けずに「俺は片付け担当だな。とりあえず今日を乗り切ろう。」と言った。
「じゃあ、みんなで力を合わせてIPA本舗を回しましょう!」裕子が力強く言うと、全員が頷いた。
その日の夕方、IPA本舗は裕子が店長代行を務め、常連たちのサポートのもと営業を開始した。裕子は初めてのことに戸惑いながらも、青山のやり方を思い出しながら注文をさばいていく。
「隼人さん、タップ2番のビールが切れそうだから、交換お願い!」
「了解です!」
「佐々木さん、お客さんにおすすめを聞かれたら『Wallace Line』をおすすめしてくださいね!」
「任せてくれ!」
お客さんもその活気ある雰囲気に引き込まれ、店内は次第にいつも以上に賑やかなムードに包まれた。
一方、病院のベッドで横になる青山は、スマホで店のグループチャットを眺めていた。裕子からのメッセージが次々に送られてくる。
「なんとか回ってます!」
「佐々木さん、隼人さん、涼子さんが大活躍です!」
「お客さんも楽しんでくれてます!」
青山は微笑みながら呟いた。「なんだかんだで、俺がいなくても回るんだな…。」
しかし、その微笑みの裏には、店を信頼できる仲間たちに託せるという安心感があった。
その日の営業を無事に終えた裕子と常連たちは、片付けをしながら一息ついていた。
「いやあ、意外となんとかなったな!」佐々木が笑いながら言うと、隼人が「青山さんが育てた店だからですよ」と続けた。
裕子は汗を拭きながら、「でも、本当にみんながいなかったら無理だったわ。」と感謝の言葉を口にした。
「これからは、私も少しずつ店のことを覚えて、青山さんが安心してブルワリーの方にも集中できるようにしたいわ。」
その言葉に、全員が拍手で応える。
「これがIPA本舗の強みだな。」佐々木が笑顔で締めくくった。
青山の復帰と新たな未来へ
数日後、青山は回復して店に戻った。裕子と常連たちが支えてくれたことを知り、「この店は俺一人のものじゃない」と実感する。
「これからは、みんなでIPA本舗を盛り上げていこう。そして、ブルワリーも全力でやる。俺たちで仙台のクラフトビール文化をもっと広げるぞ。」
青山の言葉に、全員が頷き、未来への決意を新たにしたのだった。
【登場人物】
青山・・・IPA本舗店主
柿田涼子・・・常連客/技術職のリケジョで1児の母
日下隼人・・・常連客/医師
菅原裕子・・・常連客/スーパー店員
佐々木俊也・・・常連客/ビルオーナー
南田・・・常連客/一流企業社員
沖和幸・・・常連客/IT企業社員
続きはまた今度